天に唾する

夕霞堂隱士元夏迪

對稱性を無視する議論は容易である。但し、安易である。必ず墮落する。神學やマルクス主義、フェミニズムはその例である(全て繫がつてゐるといへば繫がつてゐる)。墮落しやすいが故に枠組を拵へて逸脫を豫防してゐるとも言へようが、その意圖を裏切る作用をするのが常である。

對稱性を無視すると、安んじて二項対立を作り設け、議論を展開することができ(てゐるやうな気にな)る。これも過激化を促す要因であり、同時に裾野を廣げる素地となる。換言すれば、腐敗を加速する土壤である。

ある日「對稱性を無視できる」という思ひ込みが覆ると、己の振りかざす正義が全て己に降り懸かり、己を切り刻むことになる。正義に邁進するあまり、正義とは何か、何が正義かといふ問題を大切に考へて來なかつたツケを拂ふことになる。

非對稱性を議論することは重要である。同時に、議論、論理に非對稱性などは存在しないといふ事實を認識することは、それに劣らず重要である。當今、言說の腐敗の速度と程度の甚だしさには目を覆ひたくなるけれども、その根柢は樂をしたいといふ性根と本能である。非對稱性をめぐる公理を蔑ろにした結果である。

改善する見込みも餘地もないようだが。

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令和三年九月十四日火曜一筆箋
同日一筆箋
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