舌/熱戰

夕霞堂隱士元夏迪

參入障壁が低く、正義感中樞を刺戟する云爲には殊に警戒を要する。誰であつても足許をすくはれ、流される溪流の早瀨に等しい。轉んで爲人まで丸裸になる。三十一文字ならばまだしも、中途半端に百四十字だと愈々危ない。

參入障壁が低いといふことは、議論の根據と論理があるがまゝの己に限りなく近づき、限定されるために、通常ならば段階を踏んで道程をこなすべき思考の中拔けが生じ、また短絡を將來し易くなる。だからこそ討論し易く感じる一方、それ故に極端に趨り易い。段階が中拔けしても道程を踏む熱意と體力があれば──この手の議論に參入する者には得てして熱意と體力が有り餘つてゐるものである──ゴウルのさらに先へ先へと進んでしまふ道理である。極端はそれを誇示して己の立場と正當を言ひ募る據り處となり、互ひに斯樣な極端へと至るのだから、相互に異端とな(じ)るの外はない。後は魔女狩りと内紛である。ほゞ全人格に依存する以上、ホットな話題が下らない熱戰になる。

根據に史實や實例を擧げ、論理に實證の紡いだ知見を援用すれば、思考の過程をある程度引き延ばし、ならして健全なものにすることも出來る。しかし、その實例や實證が、限られた視野で展開した微生物學的硏究の所產であれば、寧ろ火に油を注ぐ事態となり、問題の解決、卽ち正當な討論の場とプロセスの構築は一層遠のく。話は枝分かれし、枝葉末節に拘つた應酬が展開され、互ひに大目標を振りかざして微視的な自説との齟齬、懸隔をぶつけ合ふために、憎惡の念と自恃の慰めだけが募つていく。斯うなると援用された學術そのものゝ存在意義と存立基盤が危殆に瀕し、援用といふ技法もまた累卵の危ふきに至る。そこに飯の種を見い出す論者が現れて分裂を煽り、恆常化するのも已むを得ない仕儀である。

口角泡を飛ばすのは結構ながら、無駄に唾をとばすと後には唾の汚臭だけが邊りに漂ふ事態となる。それが現下だ。

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令和元年(平成三十一年)十月二十二日火曜一筆箋
同日一筆箋
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夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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