涼州詞 夜半汽車過武威

夕霞堂隱士元夏迪

葡萄美酒夜光杯  葡萄の美酒 夜光杯
欲飮琵琶馬上催  飮まんと欲すれば 琵琶 馬上に催す
醉臥沙場君莫笑  醉ふて沙場に臥す 君 笑ふこと莫かれ
古來征戰幾人囘  古來征戰 幾人か囘る

人口に膾炙した王翰の涼州詞。遙かなる異郷で出陣を控へた兵士達の感慨を詠ふ中に、そこはかとなく漂ふ晶瑩な香気は、口ずさむものに邊疆の暑い夏を鮮烈に印象づける。それは一服の清涼劑にも似て、炎暑の情景を描いてゐるにも拘はらず、纏はりつくが如き残暑をしばし忘れさせてくれる。その涼州の現在の印象を、ほんの數分の滯在で目にした光景から寸描してみよう。

十六點二十分に蘭州長距離汽車站を後にして、左側に黄河を見ながらひたすら西方を目指す。漆喰塗りの農家は、盛夏の甘肅省の晝下がり(!)、ぎらつく太陽を照り返して、背景に輝く黄河の泥水とともに、見るものの目を突き刺し苛む。白い壁には口號が大きく墨書されてゐる。曰く「荒地を開墾して農地を擴大しよう」。

司機の横にデンと玉座を据え、數名の女官に傅かれた小皇帝陛下は、先程から立て続けにチウチウアイスを何本も平らげ、西瓜にがツつき、瓜を賞味し、カラフルな駄菓子に舌鼓をお打ちになつてご滿悦であつたが、短い午睡から目醒めると、また氣難しい御氣色にて、しきりにお付きの者にぐづつておいでである。

この百貫でぶと、疎らな樹木に透ける黄河とを代はる代はる見つめ、○○君と共に贊嘆する。××君は小閑を竊んで『街竝の美學』を讀んでゐる。

ほどなくして紫紅色に燃えた太陽が、我々の行く手に大きく傾き、知らぬ間に邊り一面を覆つてゐた草原を茜色に染め、やがて光芒を曵きながらうねる丘の彼方に暮れていく。

車内に明かりが燈り、轉寢で暑さを凌いでゐた人々が騷ぎ出す。持參の西瓜を豪快に割り、むしやぶりつくやうに水分を補給する。邊りかまはず出鱈目に種を吐き散らかし、夜に入つたからといつて、喧噪は靜まるどころか、ますます過熱してゆく。

一睡もしないでぐつたりとしてゐた我々に、果物ナイフを片手に人民服の爺樣が西瓜を差し出す。ほら、食べなさい。草臥れてぐつたりとしてゐた以上に、ゲリピイでぐつたりしてゐた御一同は、頻りに辭退するが、勘辨して貰へない。折角小康状態になつたのに、またこげなものを食らつて、ぴーぴーになつたら洒落にならぬ。實際に余が目撃した所によると、長距離汽車站の「溝だけ便所」で、○○君もまた、悶々たる苦懊に陷つてゐた由。用を足してすつきりとした表情で微笑む彼の姿を、余は親しく寫眞に収めてゐる。

結局押し切られて喰ふ破目になつてしまつた。この腹瀉が治まつたのは、やうやく酒泉二日目の事である。

暗闇の中を猛スピードで汽車は突つ走る。途中、泥の家の前で停車して、幾人か乘せ、また降ろす。早、こほろぎが鳴いてゐる。時には五分ほど休憩することもある。この隙に皆用を足す。滿天の星空の下、道端で一列になつて放尿するメン。敏捷に闇の彼方に紛れ込むウィミン。なぜか心休まる光景である(イカーン)。

眞夜中、それまで延々と暗闇を走つてゐた汽車は、忽然として街燈がオレンジ色に燈る城邑、武威に入城。メダカよろしく、人氣のない通りをひゆうひゆう走り、ロータリイで廻り、街燈の一つに近づいて止まる。うとうと眠りかけてゐた乘客が、降りなくてもいいのに、ざわざわしながら表に出る。我々も河西四郡のひとつ、武威を訪れた記念に、降りて大地をしつかりと踏み締める。

やはりそれなりに氣温は高かつたが、それでも晝間の氣違ひじみた暑さは既にどこかに消え去り、颱風の後に吹くやうな生暖かい風が吹いてゐる。結構風が強いので、肌にはほどよい温度に感ぜられ、爽快ですらある。

人通りのない廣い街路に、ぽつんぽつんと橙色の街燈。そこだけぼんやりと路面を覗かせながら、靜まり返つた邊塞の地を飾つてゐる。他の町と格別異なる所もなく、ただ個人的な感慨をもつて往古の要塞を眺め渡し、吹き荒ぶ風を胸いつぱいに吸ひ込む。発車の時間が迫つたので汽車に戻ると、生ゴミの香がぷいーんと立ち籠めるごみ集積所(塔状の設備があり、この上からトラックにごみを搭載するものと見られる)に停車してゐるのであつた。

曾て王翰の詠んだ兵営は、吹き荒れる風の靜かな音と、異樣に廣い街路と街燈の侘しいやうなオレンジ色、鼻の粘膜をつんざくやうな生ゴミの匂ひとともに、今も余の記憶の片隅に眠つてゐる。

平成五年頃脱稿某會誌掲載
同十四年六月三日改變上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
inserted by FC2 system