忙中漫讀

夕霞堂隱士元夏迪

本日二十四日、劍橋は晴れ、陽は天井を燒きました。

下の方で「薄暮の空氣に漂う華やぎは西域を髣髴する」と書きました。今日の暑威もまた、初めて彼の地に游んだ折を思はせるものでした。風はなく、冷房もなく、どこにも逃げ場のない、モオッタリとした暑さ。新疆吐魯番(トルパン)の寢苦しい夜そのものです。三階の窓から身を乘り出せば、國許マレエシアに引き取る友人の姿がありました。再會は十月です。かうして黌内が徐々に靜かになつて行きます。

長めの文章を書いてゐると、單調に赴き、平板に流れ、時には句法に惱んで晦澁に陷ります。「忙しい時には漢文」ではありませんが、他人樣の毫端に學ぶことで、自身の行文も滑らかになるものです。……と、勝手な料簡を掲げて、今日は半日、藤村『夜明け前』第一部上に讀み耽つてをりました。

「青空文庫」を知つて、眞ッ先に探したのが、この長編でした。生憎その時には上網されてをらず、漱石だの太宰だのを下載して溜飮を下げたのですが、今囘更新状況を眺めてみると、『夜明け前』第一部下の上網が報じられてありました。幸ひ「上」も見付かつて、僥倖に舞ひ上がり、ついつい仕事の手を休めてしまひました。

十年前、高等學校時代の友人と、中仙道の端ッこをうらうろしたことがありました。零時二分新宿站發の中央本綫普通列車に飛び乘つて、木曾の西、落合川站から馬籠(まごめ)、妻籠(つまご)、南木曾(なぎそ)と、東山道六十九次のうち、二十五キロだけを踏んで歸京した小旅行でした。山上に小さく開けた馬籠の情景や、本陣跡で目にした藤村の手稿が氣に懸かり、後日大學生協で岩波文庫版を買ひ求め、爾來十年、座右の書です[編輯註:後日同行した友人から「中央本綫普通列車ではなく、大垣夜行だつた」との指摘がありました。訂正致します]。

舊幕時代から維新にかけての民情を、街道の驛長の目を通して眺めた作品です。古文書を繙き、古老に聞き、自らの體驗を織り込んで描く筆遣ひは簡勁で、丹念に積み重ねた細部の描寫は、大上段に振りかぶつた維新論を壓倒する迫力があります。街道に立つて、下から時代の轉囘を仰視する。主人公の述懷です。藤村の語り口に誘はれ、讀む者もまた、ともに幕末維新の空を見上げることが出來る佳品ではないでせうか。……(中畧)……同じく細部に拘りつつも、徹底的に神の視綫を貫くトゥーキュウディデースのことを、ちらと思つてみたりするのは、仕事柄仕樣のないところかも知れません。

……(後畧)……

平成十三年六月二十四日一筆箋
平成十五年五月十三日修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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