もどきのテイスト

夕霞堂隱士元夏迪

「和」が殊更に喧傳されるやうになり、「和」が死んだことを痛感します。「和」が生きてゐれば「和のテイスト」を云ひ立てゝも無意味ですし、「和」の肝に當たる「躾(仕附)」「作法」を拔きに「テイスト」だけを削[はつ]つてみても、それは所詮「テイスト」に過ぎません。オリエンタリズムで自家中毒を起こしたと云ふべきでせうか。

季節柄目につく浴衣姿の男女でも、男の帶が腹の上だつたり、水平だつたり、女が電車の吊革にぶら下がつて、捲れた袖から二の腕が露はになつてゐたり、やたらと襟を寢かせてみたり。抑も裾捌きも絲瓜もない大股で、歩きにくさうにしてゐます。

先日青梅で花火を見ました。最近はレトロな街で賣り出してゐる青梅には、映畫の手書き看板が方々に飾つてあります。この頃は驛のホームの蕎麥屋にまで細工を凝らし、劵賣機にはペンキで錆を描き込む念の入れやうです。映畫看板とレトロな街興しが結び附いた時に、青梅が持つ昭和の空氣は死んだと思ひましたが、その空氣が死んでから、青梅に足を搬ぶ人が微増したのは皮肉なことです。

花火當日には、浴衣姿のテイスティな羣衆も、多數詰めかけたことでした。その間に立ち紛れ、山間の空を彩る華麗な花火を見ながら、己が一氣に老け込んだやうに思ひました。

平成十九年八月九日一筆箋
同日上網
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夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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