高尾山

夕霞堂隱士元夏迪

十七日土曜快晴、阪神淡路震災忌。先日の雪が殘る道を辿つて小佛[こぼとけ]峠に出ると、甲州街道の關所を往來する旅人の崇めた庚申さんが立つてゐる。新しい地藏と仲良く竝び、綺麗な花を生けて貰つてある。江戸の街道の心意氣がかすかに漂つてゐる。南側には富士が新橋[しんばし]色に耀いてゐる。

傍らの日陰には明治十三年甲州行幸時の野點址、三條相國の歌碑がある。歌碑の彫りがよく見えないな、この崩しは何だつけと見上げてゐると、「讀めますか」の聲が、廢墟となつた茶店から聞こえてくる。ハテ所々讀み下りかねますナと應じると、聲の主の老人は、これを上げませうと云つて、新聞記事の寫しを呉れる。

よかつたらこゝに掛けてゆつくりしていつて下さい、私は勝手にこゝの管理をしてゐる者ですとのことだから、これ幸ひと老人の隣の縁臺に坐り込んでコピーに目を走らせる。歌碑の脇に掲出してある記事PDFファイル]の切り拔きを縮小したものらしい。歌の部分を飜字して、建立の經緯を簡單に認めてある。碑の管理をしてゐる老人ならばと思ひ、行幸の經緯を尋ねても、老人には聞こえないやうだ。

コピーを片手に碑に戻つて碑面を檢[あらた]める。新聞記事には飜字のない詞書きのうち、頭二文字がどうしても判らない。御存知ないかと老人に聲を掛けても答へない。

やがて初老の夫婦が峠に現れ、碑の前を通り過ぎようとすると「讀めますか」と聲を掛ける。これを上げませうと始まる。夫婦はこれを斷り、どことなく迷惑げな笑みを向けつゝ、さつさと城山に道を取る。その後ろ姿に、廢墟の老人は粗末な杖を數本抱へて「杖を持つて行きなさいヨー、滑るから」と大聲で追ひかけて行く。夫婦者はそれを聞き捨てゝ、凍りついた山道をどんどん登つて行く。

城山、紅葉臺[もみぢだい]を經て高尾山[たかをさん]に辿り着く頃には白晝に富士の大觀も霞んでゐた。罐麥酒を飮む人で賑はふ山頂を過ぎ、藥王院[やくわうゐん]の堂宇の前で權現信仰の不思議な勤行を聽く。リフトで下山して、國道二十號線甲州街道を歩きながら、山梨ナンバーを眺め、街道の面影が微かに殘る建築物を撮影して歸途に就いた。

平成二十一年正月十八日一筆箋
同日修訂上網
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夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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