時刻表

夕霞堂隱士元夏迪

時刻表が好きだ。何種類か出てゐるが、いづれも獨自の工夫が凝らしてあつて、なかなか甲乙つけ難い。月毎に表題の基調色を變へてあつたり、季節感に富んだ寫眞が表紙を飾つてゐたりと、各社とも實に目配りが行き屆いてゐて、藝が細かい。

毎月定期購讀をしてゐる譯ではなく、遠出の必要がある時に、ふと思ひ出したやうに買ふだけなので、マニヤを稱するには程遠いのだが、いざその段になると、何を仕度するよりもまづ、眞つ先に時刻表を贖(か)ひに走る。それから首つ引きで旅程づくりだ。自分では運轉をすることができないから、自然と移動は鐵路によることが多くなり、當然、列車の時刻や乘り繼ぎ具合が旅の骨格を左右することになる。旅のおほよそを決めると言つても過言ではない。旅程を思ひ繞らしつゝ、時刻表を繙く眼差しも、その分眞劍になる。一寸した儀式である。

旅には勿論攜へて行く。格別必要がなくても、道中何度となく頁を繰り、紙面にびつしりと竝んだ地名や列車のダイヤが、次々と現實のものとなつていくのを確認するのは、感動的ですらある。あの町の名はかういふイメージを喚び起こしたが、なるほど、ちょつと違ふな、かうなつてゐたのか。いまは眞つ晝間だけど、朝や夕暮れ時には、また違つた雰圍氣になるんだらうな−−そんなもの思ひに人を誘ふ索引としての機能が、あの小さい時刻表を埋(うづ)め盡くしてゐる、蠅の頭ほどの活字の羣には備はつてゐる。

歸宅する。この索引機能は更に強力になる。旅の思ひ出、つまり過去の索引といふ、時刻表本來の目的からは少々遊離したはたらきが付け加はる。古い時刻表だけどまあいゝや、今度行くあそこにはどうやつて、どのくらゐで着くのかな。そんな輕い氣持ちで手にとつて、昔日の旅が胸に甦る。ふいに古今のもの思ひが交錯するのは、また格別である。一寸許り奇妙に聞こえるかもしれないが、これこそが實は時刻表を繙く醍醐味ではなからうかと、竊(ひそ)かに思つたりもするのである。

平成九年十月十一日起稿
同十四年十月十三日上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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