昭和の夜の匂ひ

夕霞堂隱士元夏迪

圖書館で事務員仕事の店を廣げた。程なくして澄み切つた空が暮れて行く。

退勤して最寄りのバス停に辿り着く。丘の上、上水の滸には昭和の空氣の匂ひが充滿してゐる。

冬の寒氣の匂ひに昭和を思ひ出すのは、吐き出された一日分の排氣ガスのせゐだらうか。都内の規制は嘗て類を見ぬ嚴しさだけれども、排氣ガスは排氣ガスだ。賑はしい街道を行き交ふ車の量を思へば、なほのことである。

放射冷却は起きなかつたらしい。少し温めの寒氣を胸に吸ひ込む。やがて夕餉の仕度の香、上水の竝木の匂ひが強くなる。

昨日もこの交叉點で信號を待ちながら、かうやつて深呼吸をしたのだつた。すぐ後ろを岩のやうな顏をした媼が巖のやうな體つきで通り過ぎざま、携帶電話に向かつて「あんたも口の利き方に氣を附けなよ、殺されるよ」と云ひ放つた。そんなことを思ひ出してゐると、乘つてきたリラックマバスが目の前の交叉點を通り過ぎて行く。

信號が變はつて、上水の滸、樹々の洞で暗さも一入の我が家に向かつて歩き出した。昭和の空氣の匂ひが段々と平成の夜氣に融けていつた。

[關聯項目]

平成二十四年十一月十四日水曜一筆箋
平成二十八年二月二十日土曜修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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