生涯學習の時代に

夕霞堂隱士元夏迪

「樂しく身につける○○」といふ惹句には嘘がある。

例へばペン習字や英會話である。これまでのやり方は詰まらなかつた。だから身に附かなかつた。教材は無味乾燥で、學習意慾を殺いでしまふ。だから身に附かなかつた。この「だから」に嘘がある。この嘘の先にある「そこで樂しく身につけるやり方を傳授します」「樂しい教材でラクラクマスタア」が空手形に過ぎないのは、當然のことである。

活字ビッチリの教材を廢して繪解きの教本を導入したはよいが、その繪解きがサッパリ面白くないから嘘がある、といふのではない。漫畫日本史で「(北條)政子さま、逆から讀んでもマサコサマ」といふ駄洒落を入れてみたところで、さして面白くないのは紛ふことなき眞實である。そこには一片の嘘もない(たゞし、繪解きが面白いといふ事實を排除するものでもない)。

教授法や教本がいくら詰まらなくたつて、傳授せられる内容をきちんと身につける人はゐるものである。さうした人々は、程度に差はあれ、習得の過程で某かの逹成感や喜びを覺え、これを轉じて愉しみとなす傾向にある。「見所のなきこそものゝ上手なれ」なる教歌が、いつの間にか「好きこそものゝ上手なれ」にすり替はつて人口に膾炙してゐるのは、その證左であらう。教材の面白さ、教程の愉しさは二の次、三の次である。

詰まらない課程を苦にせず温習し、習得した人が「樂しかつた」と振り返る。「習得→愉樂」の「→」は本來質の異なる二項をその繼起に沿つて前後に竝べたものである(習得は「事態」であり、愉樂はその事態に對して後から下す「評價」である)。そこに因果關係を勝手に讀みとる。「習得故に愉樂」となる。常識に合致する命題が出來上がる。こゝで二項の前後を顛倒する。「愉樂故に習得」といふ命題を導くことが出來る。この顛倒作業は常識で考へても異常である。この異常を隱蔽するのが、習得を欲する潛在的顧客層の怨念と慾望だ。「自分が○○を身につけ損なつたのは××が惡かつたから、詰まらなかつたからだ、從つて××がよくて樂しかつたら、自分は○○を身につけられるに違ひない」。勿論、現實はそんなに甘くはない。「樂しく身につける○○」は、これだけの嘘と、怨念、慾望によつて成り立つてゐる。

昨今では「樂し身につける○○」の方が幅を效かせてゐるやうだ。先日も婦人雜誌の見出しに「この夏絶對にキレイになりたい!(と、不思議な決意を無關係な人間に對して露出狂的に絶叫し、表明してみせるのである——元夏迪註)わたしにもできる、今から間に合ふ『ゆるダイエット』」の大活字が踊つてゐる。運動嫌ひに好適なる痩身法の特輯らしい。「樂しく身につける○○」にはまだ積極的に身につけようという意思の殘響を聽くことが出來たのに、「樂して身につける○○」系の「わたしにもできる、今から間に合ふ『ゆるダイエット』」は、駄目な自分を肯定して呉れろと云ふ積極性ばかりが鼻につく。慌てゝ己の腹周りの肉を摘んでみて、駄目な自分の否定に相勉めるのである。

「樂して身につける○○」といふ惹句には、恐るべき眞實がある。

平成十八年五月二十五日一筆箋
同日修訂上網
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夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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