午前五時四十分、ベランダで油蝉が死んだ。すぐ脇の机で雜用を片づけてゐる間中、ギギと鳴きながら仰向けのまま羽根で地面を叩くのが氣に懸かつてゐた。一秒前は生きてバタバタしてゐたのに、と哀れを催す。
七時三十四分、油蝉が生き返つた。脚を下にして正常な體位を保持し、何やら手を擦つてゐる。死んだり生きたりのリズムが間遠になり、軈て動かなくなるといふ仕方で命を終へるのだらうか。とても佛教的な死に方である。
夜を徹して鳴いた一時の勢ひはなくなつたものの、上水沿ひの木立からは、まだまだ蝉の聲が聞こえてくる。仲間は減つていくが、乃公は生きてゐるぞと云はぬばかりの聲である。その聲が跡絶えても、生死の間で輾轉する蝉がゐると思ひたい。
最後まで輾轉する蝉が何を思ふのか思はないのか、そんなことが氣になるのは、蝉は曾て人間であつたといふミュートスが胸に去來するからなのであらう。