仔細あつて、畫譜に投稿するのを日次[ひなみ]としてゐる。日次とするからには、銀鹽寫眞機を用ゐる譯にはいかない。デジタル寫眞機を攜へる事になる。
攜行に便利な機械は全體に鈍重で、意に染まぬところばかりだ。これを使ひこなすためには、日次の撮影もよい訓練であらうか。
焦點距離がズームの兩端にほゞ限られてゐるのは、調整機構の反應が鈍く、或いは使ふこちらが鈍く、中途の距離に合はせたくとも、思つたところでズームを止められないからである。首尾よく止められても、ファインダーを覗けば、思つた畫角とは似ても似つかぬ範圍が映つてゐる。撮影の基本に立ち返り、歩いて近づき、歩いて遠ざかる外はない。
オートフォウカス機構も遲く、甘い。これはオートフォウカス一般に常々懷いてゐる不滿でもあるから、攜行するデジタルカメラばかりを責めるのは酷といふものかも知れない。しかし合焦點を示す位の配慮はあつてよい筈だ。
露光時間と絞りは勿論御仕着せである。三分の一刻みの露光補正が前後二段階に效くのが、せめてもの救ひである。
毎日撮影するといふことは、見慣れた日常を切り取る事になる。日常がごく身近で完結しがちな性分なので、極々狹い世界を寫し取らねばならない。半ば拷問のやうな訓練である。
だが、目は肥える。よい被寫體を探す目も肥えるだらうが、よい被寫體を探す色氣が萎え(元々「繪造り」にはあまり興味がないにしても)、寫眞機を媒介として日常と接する心持ちが變はり、周圍を讀みとる目が纖細になつてくる。
思はぬ效能に、日次撮影を課して呉れた御仁と、意に染まぬ撮影機材、己の生きる狹い世界に感謝せねばなるまいかと苦笑ひをしつゝ、今日も上着の隱しに寫眞機を忍ばせる。