英語嫌ひは

夕霞堂隱士元夏迪

職場でネットに接續して、業務關聯情報を掻き集めてゐると、豫備校で世話になつた英語講師の名前が見える。奧井潔といふ方である。

勿論名前は憶えてはゐたが、大學で教鞭を執つてゐたことは忘れてゐた。だから勤務先など、思ひ出すはずもなかつた。奧井が執筆した學科の來歴に檢索で辿り着いて驚いた。自分と多少縁のある大學ではないか。

英語は嫌ひだつた。中學校ではアメリカ禮讚の新卒青二才が無學な田舎者をつかまへて「ヘローエブリワン!」とか云つてゐるのだ。お歌を歌ひませうとか、變な事ばかりやりだすのだ。黒人解放は素晴らしいとか云つてゐるのだ。なんで黒人がゐるんだよ、解放つていつのことだよ。中等教育の英語は、大概この手の教諭に當たつてしまひ、只でさへバタ臭い物が嫌ひなのに、ますます嫌ひになつた。抑も、舊敵國羣ではないか。それよりなによりまづ外國語が何か、その概念を教へなさい。「次の單語を英語に直しなさい。林檎」といふ問題にringoと囘答して×を喰らつた中學校一年生一學期の中間試驗は忘れられない。

高等學校を卒業した時、頭に入つてゐた英語は、中學の知人が口癖のやうに唱へてゐたmake it a rule toget rid of+アルファだつた。「憶えちや行けません」と云はれた世代だから、單語だつて何だつて、憶えないやうにしてゐた。アメリカにかぶれたこともなければ、洋樂も聽かない。聽いて判らぬものを聽くはずもない。御詠歌は素晴らしい、英語教育を全廢して漢文と梵語を必修にせよとか口走る少年が、extraordinaryみたいに難しい單語を知つてゐる譯がない。

英語が人語で、アメリカ語ばかりを指すのではないと教へてくれたのが、奧井潔である。機械語のやうで、動きに乏しい言語にも深い含蓄があり、豐かな滋味があることを、飄々と説き明かす。薄くて粗末な讀本には、デイビッド・ローレンスやサマセット・モームの文章が載つてゐたやうに思ふ。いつだつたか、誰かの文章でThis is the woman!なる一節に來た時、「畜生、女め!」と譯して見せた奧井に、ひどく感心したものである。慥に文章の脈絡と、文末の吃驚マークを考へれば、美味い解釋であつた。モームを開けてみたり、家庭教師でローレンスのペイパーバックを使ふやうになつたのも、多分に奧井の影響だらうか。

面倒臭い構文の説明などはなかつた。自分でやれと云ふことらしい。こちらもそんな授業は御免であつたから、都合が良かつた。奧井の粗末な教本をはじめ、手許の英文をひたすら讀誦して憶えた。だから、伊藤和夫といふ講師の授業は退屈で仕方がなかつた。構文の推知なんて、聽かなくたつて判るよ、なんだこの授業は。實に退屈で、折角の英文が臺なしだつた。

伊藤和夫といふ人の名前を思ひ出して、先程檢索したら、授業風景を動畫に收めた者がゐた。再生してみると、實に退屈で、咳拂ひが延々と續く甲高い聲の單調な口ぶりで、己が受けた授業と全く變はらない。だが──驚くではないか。英文と希文の違ひはあるにしても、説明の仕方が自分と似通つてゐる。ここまで讀んできて、文の構造をかう理解する、しかし次の單語で、その理解の誤りを知らねばならない、なぜならばこのやうな文法事項があり、最初の理解と齟齬を來すからだ云々。

伊藤も英語が苦手だつたさうだ。中學校の英語力に、後は多讀で讀解の筋道を身につけ、それを歸納して規則化したといふ。どこか己に通じるものを感じる。彼の授業の影響は恐らく全く受けてはゐない筈だが、この歳にして相似たことを教授する自分に氣づき、伊藤に對する視線も少しばかり變はつた。その彼とどのやうにして別れたのだつたか。全く記憶にない。大岡俊明といふ世界史の講師は「ここで聽いたことは、さつさと忘れなさい」だつた。多分伊藤もそれに類することを云つたはずだ。教室の片隅で聽いたこちらが荒んだ心持ちになつたことを憶えてゐる。今は伊藤の氣持ちが判る。奧井はどうだつたか。本を出した、題して『イギリス文學わが師わが友』と云ふのでえーあります。宣傳めかしたことを口にしながら、長躯を丸め、指に摘んだピンマイクに語りかける含羞が瞼のうちに甦る。

奧井と伊藤は鬼籍に入つた。二十年前の日々が顏を覗かせ、お前は今何をしてゐるかと尋ねてゐる。さて。

平成二十二年八月二十六日木曜一筆箋
平成二十五年八月七日水曜修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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