モンキーマジック

夕霞堂隱士元夏迪

昨日の春一番はクレーン車を押し倒す狂風で、風も濁つてゐるやうな鹽梅であつたが、今日の強風は沙粒を多く運んでゐながら、風そのものは明澄で、光線を搖らし邊りを眩しく見せてゐた。

風に吹き寄せられて來たのだらうか。最初に一の概念を獲得した人(猴)といふ觀念(妄想)が腦に湧き起こつてきて、その人(猴)に痛く感心した。一の概念が數の概念に開け、數の概念はその後數千年に亙つて、次から次へと新しい相貌を開陳し續けてゐる。その人(猴)はよもやそのやうなことになるとは夢にも思はなかつたことであらう。

しかし、この數の世界とは何か。數理といふ位だから、數に理があり、それが體系に比すべきものを備へてゐるのは判るにしても、この理は、誰がどの思考水準で設定したものなのか(「發見したものなのか」と云つてもよいし、「記述してゐるものなのか」と表現してもよい)。

「夢の中でも三角形は三角形だ」とか、「寤寐の別なく一足す一は二である」といふことを根據に、認識と實在との間に橋を架けようとした人もゐたやうな氣がするが(こんなに單純な話ではなかつたやうな氣もするが)、その三角形や、演算、數といつたものの位置づけに就いては、細かく書き遺してゐなかつたやうに記憶してゐる。

數學に明るい人にそんな話をすると、數の概念が現實の世界に對應する例を澤山擧げてくれる。少なくとも、昔訊ねた時には擧げてくれた。數とは認識論的な問題ではない、妄想ではないといふことを力説してゐるのであらう。數の概念を理解し、體得する時に、これと逆の手順を蹈んでゐるのだから、對應して當たり前なのである。それが疑問に對して、何の答へにもなつてゐないこともまた、當たり前なのである。

人語で御教示願へる方の嚴教に俟ちたい。

#數學(の教科)書の言語は人語ではない。

平成二十年二月二十四日一筆箋
同日修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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