手で考へ、手で綴る

夕霞堂隱士元夏迪

撰文に電算機は缺かせない。想を凝らすにも、文を構へるにも、辭を整へるにも。抑も文獻を繙讀するにも電子媒體が増えてきたし、紙があつても持ち歩きを考へれば電子媒體に軍配が上がる。

物を調べるにもインタネツトの活用が必須の時世である。邦語のヰキペディアや個人研究、調査を發表する網站はさほど見ないにせよ(言説の在り方を觀察する素材にすることはある)、各般の論文や研究機關の網站、資料集成や雜誌、新聞の外語記事などに張り巡らされた網の目を辿らずして調べ物をすることはもはや叶はず、調べ物の手がゝりを得ることもまた難しい。

それにも拘はらず──或ひは、それ故にこそ──紙と手が撰文に持つ意義は愈々重い。箚記を作るに簡便、書式、形式を離れて線を引く自由、掌を中心に展開する神經が複雜、精妙な手指の動きと聯動して腦を刺戟する緩急が、凝り固まつた視野と發想を解きほぐし、思考に柔軟な飛躍を生む。措辭に照りを添へる。

草枕の空の下、久し振りにダイヤメモを繰る日々を過ごして、つくづくさう思ふ。手書きのメモはタイプしてそのまゝ何かに使ふことにもなるだらうし、旋律のある運筆を眺めながら、或ひはタイプする過程で、更なる飛躍を誘ふ囘路としても機能することになるだらう。

平成二十九年九月七日木曜一筆箋
同年十月九日月曜修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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