西遊の日 京都漫歩

夕霞堂隱士元夏迪

一週間の西遊を終へて歸京したら、疲れと眠氣が重なつて、まだ頭がボーッとしてゐます。用あつて向かうから毎日家に聯絡をとつてゐたので、君の書翰の着信がリアルタイムに傳はつてきた。有難う。

こつちも紀の川筋の古い宿町、橋本市中からそちらに送信しましたが、今は無人の母の里の傍ら、駄菓子屋「○○○○」(今は細々と烟草屋を營んでゐるやうです)のポストに投凾した際、一通も入つてゐなかつたせゐか、「ポトン」と虚ろな音を立てゝゐたので、果たして囘收に來てゐるのやら、大層不安を覺えました。

その端書も市内の小さな郵便局で求めたものです。「故郷端書セットとさくらめ〜るを五枚戴けますか」といふこちらの東國訛に、受附孃は和歌山弁といふよりも、もう奈良南部の方言の入り交じつた古風な關西辯で愛想よく應對してをりましたが、その背後で同僚とおぼしき若い娘さんたちがヒソヒソやつてゐるのが目に入り、妙なところで感心したり、旅情を掻き立てられたり、二十前後の受附孃を眺めながら、ふと「君らが生まれる前にこつちはこの町の狹い路地を走り囘つてゐたんだぜ」と心の裡でつぶやいてみたりと、なんだか複雜な心持でした。

この町の狹い狹い路地が、私の路地好きの因であり、原風景であることも、今囘の歸國でよく判りました。今まで夢に見て、この風景はどこか見覺えがあるな、と眠りの中でぼんやりと感じ、また漠とした不安に襲はれた樣々な情景を、そつくりそのまま、低い軒を連ねたこの町の方々に見つける事が出來ました。張り込んでどつさり寫眞に收めてきたから、よかつたら今度御披露致しませう。

……(中畧)……

今囘の歸國は父母の代參が名目でした。無事墓參を終へ、和歌山を後にして上洛、四條大橋のたもとの「マクド」で●と○○と待ち合はせをしました。待ち合はせ當日は、橋本市内の叔母の家から南海鐵道で難波に出、地下鐵御堂筋線で梅田、梅田で阪急電車に乘り換へて終點の河原町に行きました。連中と會ふために、和歌山からこんな經路で京都に出掛けるのも、何か竒縁のやうなものを感じました。

ところが肝腎の「マクド」に着いてみると、約束の時間になつても誰も來ない。仕樣がないから、マックシェイク莓味を啜りながら、旅の道連れに攜行した『夜明け前』の頁を繰つてゐると、三十分ほど遲れて○○が「あー元夏迪」と息せき切つてやつてきました。見れば一人で來た樣子で、案の定「あれ●は。まだ?」。

なんでも東京驛で待ち合はせて新幹線で上洛する豫定になつてゐたやうですが、待てど暮らせど●が來ない。三十分ほど待つて(つまりこの時間だけ○○は遲刻した譯です)から、先に行つたのかもしれないと思ひ直し、一人でひかり號に飛び乘つたとのこと。

二人であーでもない、こーでもないと四方山話に興じてゐると、一時間遲刻で大荷物を抱へた●が登場。やうやく三人揃つたところで、上終のラーメン屋「天下一品」本店で晝を認め、詩仙堂と曼殊院を見物しました。

石川丈山の庵は、彼の遺筆の樣式性にひそかな反撥を覺え、隨分俗な感じがしましたが、見事に計算されたその庭園は、四季折々に目を樂しませてくれるだらうと思ひました。曼殊院には名筆名畫を數多く藏してゐました。藤原俊成の直筆古今和歌集には息を呑みました。何とか法親王の親筆になる屏風繪も見るものを飽きさせませんが、どうも氣温が低かつたせゐか、足元が冷たくて冷たくて、それに空がドヨンと曇つてきたので憂鬱になり、いま一つ印象が曖昧です。

で、宿探しだがね。あんまり金もなかつたので、ホテルに宿をとることは初めからせず、中國ではないが、行き當たりばつたりで旅舘なり民宿なりに掛け合つて見ようといふことにしておいた。どうしても駄目だつたら、コーヒー一杯六百圓で一晩粘れる河原町通りの「タナカコーヒ(誤植に非ず)」か、同じく八百圓でお日待ちできる「珈琲(紳士服に非ず)の青山」なる喫茶店で假眠をとらうといふことになり、夜の三條から五條にかけて、河原町通りに沿つてふらりふらり、路地裏を覗きながら宿探しと洒落込みました。

ビジネスホテルのフロントで、いきなりだが素泊りはおいくらですかと訊くと、ツインは御一人樣六千圓でございますが、本日分は五千圓にさせていただきませうと云つてくれました。珍しいこともあるもんだ(足元を見るんぢやないかと思つたよ)と感心しましたが、態々京都まで來てビジネスホテルも味氣ないや、それに些と高いしといふことで、別の宿を探しに、再び徘徊の途に着きました。

もうだめだねこりや、茶店か驛寢か、●君のオウチかな〜とふざけて高辻通りから薄暗い民家の竝びに入ると、如何にも胡散臭い看板が燈つてゐます。曰く、「旅舘ひのもと」。

燈りの下、普通のしもた屋の引き戸に一聲かけて手を掛けると、ガタガタ云つて一向に開かない。中で人の氣配がするから、一應營業はしてゐるやうだが、どうも玄關まで出てこない。明後日の方でパタパタ音が立つてゐます。さーて困つた、もう一遍、さつきよりも心もち大きめの聲で「御免下さい」とやつてゐると、不審と不安に目をいたおばさんが、應對に出て來ました。

虚を衝かれた恰好の私は、「突然ですが申し譯ありません、あの〜素泊りはいくらほどのなりますかね」としどろもどろになつてしまひました。おばさんは、京言葉で「お一人四千圓になりますけど」。「泊まります、泊まります、泊めてください」と疊み掛ける我々に、しれつと「ほな、まづ表にまはつてもうて」と云ひおいたおばさんは、そそくさと奧に姿を消しました。さう、胡散臭い看板に誘はれた我々が叩いた門は、その旅舘を營む一家の勝手口だつた譯。某新興宗教勸誘員のやうな私の巧みな語り口を冷やかし、ラッパをぷーぷー吹き鳴らす大八車の豆腐賣に感動した○○が、一人路上で騷いでゐました。

まあ、玄關も大したことのない、云つてみれば木賃宿なんですが、京屋の造りを活かした氣のおけない宿ですので、ちよつと名刺から情報を轉寫しておきます。何かの機會に京都に泊まる樣なことがあれば、一度使つてみてもいいでせう。

Economical Japanese Inn Group Ryokan
HINOMOTO
375 Kotake-cho, Matubara-agaru,
Kawaramachi Dori, Shimogyo-ku,
Kyoto, 600 Japan.
Tel: (075)351-4563
Fax: (075)351-3932

と、こちらがメインの記事で、次に日本語の表記が續きます。

觀光旅舘旅舘
ひ の も と
600 京都市下京區河原町松原
上ル幸竹町375
Tel: 同上
Fax: 同上

「ひのもと」とはたゞ事ではないなーと思つてゐたら、何のことはない、「樋ノ本」さんの營むお宿といふだけの話でした。

なほ、名刺の表記からも判る通り、どうもこの宿、京都觀光に來た外國人向けの旅舘のやうで、そのせゐか全ての部屋が和室、小さな床の間には「人生感意氣」の下手な色紙が掛けられてゐる(中曾根康弘揮毫だつた、下手な筈だヨ)。便所は和洋雙方が備へ附けられてをり、風呂場には御叮嚀なことにHow to use Japanese Bath (Furo)の説明書き。旅舘中横文字の説明が溢れかへつてをりましたよ。その中で可笑しかつたのは、relax in the bathtub, maybe sing your favorite songs(「浴槽で體を延ばし、御好みの歌などをむのもいゝでせう」)といふ件ですかね。風呂桶は一應、檜造りでしたぜ。

翌日は●と十時に三條大橋のたもと、高山彦九郎の像の前で待ち合はせました。少し早く宿を出た我々は、四條大橋の脇から河原におり、夏になると露臺の出盛る川筋をのんびりと散策しました。途中、かたせ梨乃と西岡徳馬がロケをやつてゐて、これは土曜ワイドか何かの「探偵はみた/京都鴨川殺人事件」てなところだらうよといゝ加減なことを云つてゐました。歸京して何氣なくつけてあつたテレビで、西岡徳馬が四月二十二日のヤマムラ某原作・何とかサスペンスで放映豫定と宣傳しとりましたよ。

この日は大原の寂光院を皮切りに、三千院、銀閣寺、南禪寺水閣を見てまはりました。洛北の山里に春の足音はまだ遠いやうで、先日も一メートルからの雪が降つたばかりと聞きました。また、中途半端な時期だけに、見物人は懷の寂しい女子大生卒業旅行御一行樣に、若干おばさんがちらほらするだけで、むつさい男同士の組は殆ど見ませんでしたな。薄日さす森閑とした山里の小道を蹈むだけで、京都に來た甲斐があつたなーと浮き浮き致しました。實際、あの寺は尼寺だけあつて、造りもこぶりで隅々に到るまで細やかな心配りが窺はれ、一遍でファンになつてしまひました。

一方、三千院は、名高い紫陽花に彩られる譯でも、紅葉に飾られる譯でもありませんでしたが、靜まりかへつた苔庭、丹塗りが剥げて一見白木造とみまがうばかりの御堂から、木立に向かつて柔和な笑みを送る平安佛(阿彌陀如來でせうね。●は鎌倉佛の可能性も捨て切れないと云つてました)、同寺珍藏になる名跡の數々に壓倒され、流石は千年の京と息を呑みました。そこここに散策する若いカップルも、普段に似ず目に心地よく、飜つて我々のしさを恥ぢたりも致しました。しかし寂しい我々(つて、俺だけかも知らん)だからこそ、ちつたあはしやいで塞ぎがちの氣分を吹き飛ばさなくてはならなかつたやうな氣もしやす。

三千院からバスを乘り繼ぎ、生まれて初めて見た銀閣は、小ぶりといふ點では寂光院によく似てゐましたが、箱庭を造つて悦にゐる閑人の後ろ姿がちらつき、どこか嫌味なものを感じずにはゐられませんでした。所謂觀光客が群れてゐたせいかもしれません。しかし彼等とてハイシーズンの大混雜に比べれば、さほど目障りになつた譯でもなく、通り一遍の印象に何らかの根據があるとすれば、やはり造營者が足利將軍であつたといふ事情といふか、豫備知識が、私に僻み根性とも反撥心ともつかぬものを抱かせ、こんな感想になつたのでせう。

或いは、比較の對象となつた寂光院には、庵主となつた姫君たちの悲哀、酸鼻を衝くが如き壇ノ浦の逸話が籠められてゐるために、ついつい見る者をして襟を正さしめるからでせうか……(中畧)……。とにかく、初めての銀閣寺はあまり感心しませんでした。

その後哲學の道……(中畧)……をぽたぽた南下して四方山話に花を咲かせながら南禪寺の山門を仰ぎ見、明治初年、大津から水をひき、ローマの水道橋……(中畧)……をさながらに、境内を貫く水樓閣で暮れる夕陽を眺め飽かしました。些か珍妙な京見物を堪能して、●に見送られながら、私と○○は東海道本線上の人となり、京都驛から一路郡上八幡を目指したのでした。

……(後畧)……

平成八年三月二十一日某君宛
平成十五年三月十日修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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