鈍根の營む囘向に花曇り

夕霞堂隱士元夏迪

[平成十六年]三月九日火曜、Keith Hopkins名誉教授逝去。合掌。

昨十四日日曜、曇天、小雨、時に霙、そして雨また曇。寂しい春の宵に書見、役務に備へ、本業を想ひます。今朝方にはIan Morris, ‘Archaeology and Archaic Greek History’, in: Fisher, N./van Wees, H., edd., Archaic Greece: New Approaches and New Evidence, London: Duckworth/The Classical Press of Wales, 1998, 1-92を讀了。

文中にスノッドグラス教授を批判する件があり、それで想ひ出したのが、ス教授の報告。演習の席上、擔當教員であつたス教授が率先垂範とばかりに研究報告をなさつた折に、詳細な批判を試みてゐたのが、このモリス氏でした。演習に遲れること三年、モリス氏の仕事の上梓から實に六年にして、やうやく話の全體像が見えた次第です。實のある批判で互いに向上を續ける樣子は羨ましくもあります。

ス教授と竝んで演習を擔當した教員が、キース・ホプキンズ教授でした。先日さる方に書き送つたメイルの全文を引き、囘向に代へたいと思ひます。

ホプキンズ教授には渡英初年度の修士演習で小さくなつてゐるところを、色々と氣遣つていたゞきました。

「報告者、も少しゆつくり喋つてくれんかね。老人にはきついなあ」とおどけたのも、不佞を含め、イギリス英語に慣れない外國人に配慮して下さつたのでせうし、「報告者は前日までにペーパーを人數分複寫して、參加者全員に讀ませること」といふのも同斷です。

「どんなことでもいゝから、一人一囘は質問をしよう」といつて、一人一人指名したのは、議論の輪に入れなかつた不佞を慮つて下さつたからに相違ありません。「アルヤンのポリュビオス解釋はをかしい、このギリシヤ語はそんな意味には讀めない」とオランダ人に質した時には、吃驚したやうな、愉快さうな顏をしてゐらつしやいました。

「報告には必ず冗談を入れて、聽くものを愉しませてくれねば困るよ」といふ教へには添へませんでしたが、それでも笑つて聽いて下さいました。不佞の報告を聽いて「言説と神話との語義が混亂しないやうにしなけりや」といふお叱りを下さいました。不佞の所論を擁護して立つたドイツ人と打々發止の議論をしながら「これだからユリヤとやり合ふのはゴメンだよ」といふ含みのある笑顏でウヰンク。

「君の英語の文體は隨分と堅いね、まるで役場の通逹のやうな流れる文體だ」。咄嗟に眞意を測りかねた不佞が「仰る意味がちよつと」と訊くと、横からスノッドグラス教授が「キースの皮肉だから、まともに取り合はんでよろしい」。云はれたホ教授はニヤニヤなさつたり。一方でス教授他考古學者數名が「古代ギリシヤ人が神話を眞に受けてゐた證據は一體どんな」と始めると「何を云つてゐるんだお前ら、もつと竒天烈な奴を二千年も後生大事にしてゐる癖に」。神學部との合同演習では、不佞の缺席した會に一悶着を起こしたこともあつたやうです。

お教へ戴く期間は二月と、あまり御縁のない方でしたが、かうして書き始めると、次から次へと思ひ出されることばかりです。皮肉屋で嚴しい方なのに、不佞にはやさしく接して下さいました。嗄れ聲で聞き難い御自分の英語を知つてか知らずか、或いは香港大學での體驗の故にか、いつもゆつくりと微笑みながら話しかけて下さいました。○○先生、××先生[編輯註:このメイルの名宛人でホ教授の御友人]に御厄介になつてゐる者だとは、しばらく口にしませんでしたし(機會がありませんでしたので)、東京で一度お目に掛かつたことがあると告げた時にも、失念してゐらつしやいましたから、叮嚀に接して下さつたのは、恐らく教授御自身が元々さういふ方だつたのだらうと思つてゐます。

辛うじて英語が使へるやうになつてからは、研究會でお目に掛かることも叶はず、御禮を申し上げる機會を逃し續けて永訣の日を迎へてしまひました。「暴れん坊キース(同僚にはbaby Keithと呼ぶ人もゐました)は退職してこんなところに戀々とするやうな御仁ではないのかな」と思つてみた自分が淺ましく思はれます。

つい先日、人傳に「キースが危ない、死の床についてゐるらしい、こゝ數年は病で病院と自宅の間を行つたり來たりだ、今度はもう駄目だ」と聞いたばかりでした。噂好きが仕入れた情報の眞贋も確かめず、人の生き死にを御地に報ずべきかどうか逡巡してゐた矢先に訃報が屆き、暗澹たる思ひに打ちひしがれてをります。精々御厄介になつたことを忘れずに、自分の出來ることをやつて行かうと思ふばかりです。

平成十六年三月十日一筆箋
平成十六年三月十五日一筆箋
平成十七年三月四日修訂
平成十九年二月八日上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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