風に悟る日

夕霞堂隱士元夏迪

颱風一過の全き藍天が深く澄み、丹澤、奧多摩、彼方の富嶽が目睫に迫る。烈風が透明な光線を搖らしてゐる。西の公園のベンチに腰掛け、今日この日にこゝに坐つてこの光景を眺めるために、これまで生きてきたのだといふ心持ちが涌いてくる。

颱風が風を置き土産に去ると、その日は一日酸素が濃い。濃すぎるくらゐ濃い。命の息吹を感じることもあれば、命になる前の息吹や、命であつたものゝ吐息を胸に吸ひ込むこともある。輪廻轉生、因縁生起。何と云つても良いが、時に命の溶け込んだ風に吹かれることが慥にある。

この前はいつ、どこでゝあつたか、今は定かに思ひ出せないけれども、或いは天山を越える旅路にあつた時、または烏魯木齊紅山の山頂に立つた時であつたかも知れない。かういふ日には何かしら悟るところがあるものである。

平成二十六年十月四日火曜一筆箋
平成二十八年二月二十日土曜修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
inserted by FC2 system