甲斐國

夕霞堂隱士元夏迪

舊い國に來た。甲斐國である。

俄かに思ひ立つて汽車に乘り、甲府の一隅に隱れる一夜を過ごしてゐる。音に聞く要害温泉に湧く湯にも、期せずして浸かるを得た。

今は人影も絶え果てた帳場脇のロビィに降り、獨りソファに身を埋めて用務通信の有無を確認してゐる。

ふと、遠く山の香を聞く。流石は山國だ。鼻腔の奧の奧に、幽[かそけ]く、淡々しく染み入つてくる。

そんな幸せを當たり前とばかりに、甲州の大盆地も、町も家竝みも寝入つてゐる。この静けさ、閑かさは、甲州の天もまた、木々や山肌、巖の馥郁を齒牙にも掛けずに眠りこけてゐるからこそのものなのか。

いや、これは自足の深い悦びの滲む閑寂だ。武州とは形を變へた天がさう言ひたげである。

冷えて來た。室に戻るか。

平成二十八年十月二十二日火曜一筆箋
平成二十九年三月十三日月曜修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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