講讀

夕霞堂隱士元夏迪

學部三年に上がつて演習といふ場に顏を出し、英語で綴つた概説書を讀むにも、隨分とゆつくりと時間を掛けて、叮嚀に讀むんだなあと感心した記憶がある。著者の名前は忘れてしまつたが(酷い話だ)、The City of Socratesといふ本で、希臘古史の基礎知識を一般公衆にも判り易く説き明かしたものだつた。

冠詞の種別や有無から、行文、語氣などに至るまで穩やかに質してくる教官(と當時は云つた)を、擔當學生は怖れた。擔當者が答へに詰まると、隣の者に質す。そのまた隣に質す。次々に尋ねてみても答へが出て來ない時には、順序を無視して、希史の學生を指名して、収拾を圖る。

後で聞けば、意外なことにその先生自身もまた、講義や演習に臨んで、かなり胃が痛くなつて難儀したといふから、生眞面目な御仁である。少しは見ならわねばならぬ。

自分が演習の場で英書を讀ませる側になると、その先生と同じ鹽梅にやつてゐて、我ながら可笑しい。文法や語釋を訊く。修辭と行文の意圖を尋ねる。その上で内容を吟味する。

講讀に先立つて

「先生、この本はチャプター毎に學生が擔當して、毎囘一章づつ進むんですか」

と朗らかに尋ねてきた學生たちも、實際に演習が始まると

「先生、これ難しいデス」
「一生懸命豫習しても全然先に進みません」

と、かはいい悲鳴を上げてゐる。

かつての教官とは違つて、元夏迪センセは、それで胃痛なんか起こさない。しかも學生の悲鳴なんぞは全く無視して、どしどし先に進んでいく—ならば教師の鑑なのかもしれないが、これが全然先に進まない。學生の豫習にすら追ひつかない。胃痛は見習へぬにしても、せめて進度くらゐはなんとか、と思ふ。先生はどうやつてあの進度を保つたのかしらなどと、かつては竊かにその鈍足を嗤つた演習が俄に神々しく見えてきたから、どこから見ても立派な不肖の弟子だ。弟子ですらないのだけれど。

平成二十一年五月四日一筆箋
平成二十二年五月五日修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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