この日この本

夕霞堂隱士元夏迪

井上成美傳記刊行會『井上成美』(古鷹商事内井上成美傳記刊行會、昭和五十七年)を千八百圓といふ破格の廉價で入手した。金澤の古書店の主がカタログに附けた但書に「傍線附箋が多く、箱がない」とあるから、そのせゐであらうが、この手の特殊な書籍はその手の「汚損」があるほど資料的價値の高い可能性があるのに、と古書業界の現状を殘念に思ひつゝ、ほくそ笑んでゐた。

屆いた現物に店主が挾んでくれた添へ書きを見て驚いた。慶應義塾の内山正熊教授舊藏書である。

外交史で著名な教授の手澤本だといふだけでも貴重なのに、教授は研究者としてこの書を繙いたばかりではなく、恐らくは當事者として、否、遺族としてこの傳記を熟讀したに違ひない。令弟内山敬三郎海軍中尉は昭和十九年、パリックパパン上空で戰死してゐる。内山中尉は海兵七十二期である。井上成美中將が兵學校校長に赴任して四日後に卒業した生徒である。たつた四日とはいへ1、教授は、日本現代外交史の裏面に活躍した井上提督と、實弟とがかうした縁で結ばれてゐたことに、某かの感慨なきを得なかつたに違ひない。

さうした人物の手を經て、今日といふ日にこの傳記は不佞の許に屆いた。萬感の思ひを込めて藏書印を押し、この書物の所有者の一人として名を連ね、古書の價格をまた少し引き下げることゝした。

1 誤記。井上中將が兵學校校長に着任したのは海兵七十一期生卒業四日前である。七十二期の内山中尉は、一年間井上校長の薫陶を受けた。

平成十八年十二月八日一筆箋
平成十九年正月二十七日修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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