味はひ

夕霞堂隱士元夏迪

あの鍋貼は、慥に美味だつた1。餃子と饅頭とを足して二で割つたやうな、不思議な料理だつた。餡(具)に滲む脂、汁も申し分ない。これまた御婦人の手製になる各種の醤(付け汁)がまた旨い。

中華人民共和國で旨い餃子にありついた記憶がない。餃子を食ふなら本朝に限ると固く信じてゐた。だから、あの旨さには驚いた。お母さん、この鍋貼とても美味しいけれど、どこの調理法なの、と訊く娘御は川菜の名手だ。轉瞬云ひ澱んだ母君の應へて曰く「朔方だよ(Northern)」。

忖度するに、その意は「滿洲」だつたのではあるまいか。御母堂が支那大陸に暮らした時代に、支那政權の版圖たるべき「東北」はまだ成立してゐなかつた。「東北」を版圖に主張する政權からしてまともに成立してはゐなかつた。國民黨も中國共産黨も、ひたすら中原に鹿を逐つてゐた。

「御國の國歌national anthemを存じてをりますよ」と云ふ御母堂に、弊國の國歌は先年制定されたばかりですのに、隨分と早耳ですねと應じかけた言葉を呑み込み、念の爲にその經緯を尋ねる。大連の幼穉園で習つたといふ。日本國の國歌ではなく、關東の租借地で大日本帝國の「君が代」を習つたのであつた。

大清の搖籃滿洲、ロシア帝國が本朝に明け渡した租借地關東州、その港の大連。歴史を生き拔いた媼が、娘御も知らぬやうな遠い故郷の味を振る舞つてくれる。朗らかに座を取り持つその氣遣ひも有難い。異郷で同じ卓子を圍み、春節を祝ふ縁の不思議に馳せる思ひが、古い滿洲の膏粱に深い味はひを添へたことは疑ひを容れない。

1 平成十七年二月九日水曜春節。

平成十七年二月十七日一筆箋
同年九月十九日修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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