語學力

夕霞堂隱士元夏迪

ことばを精確に理解するといふことは、最もスマートな解釋を探すことである。スマートな解釋とは、特殊なルールを出來るだけ想定せずに濟ませる解釋のことである。特殊なルール、即ち附會であり、無理である。割り算に喩へれば、極力餘りのないやうに商を探すことである。言語を問はず、文、文を組み上げた文章は、この原則により解釋せねばならない。さうした解釋を前提に文、文章は組み上げられてゐる。

言語の習得には文法と語彙の知識が必要である。當たり前のことである。文法も知らない、語彙も知らない言語の語學力は零に等しい。ところが、文法を學び、語彙を身につけても、その言語が出來るやうになつたとは云はない。文法の知識、語彙の知識の運用方法を學ばねばならない。

語學でしくじる人は、この點を辨へない。學んだ知識を組み合はせて、文、文章をスマートに理解し、スマートに理解できる文、文章を作り出す方法にあまり頓着しないのである。ある文を解釋する際に、個々の語の含意をどのやうに見定め、文法知識の何を當て嵌めれば、最も無理なく理解できるかといふことを意識的に修煉しないので、字面から「類推」を逞しくして、「意味的に考へるとかうである」式の珍解を連發する。一度この癖がつくと、まづ語學力は伸びない。それでも文法や語彙の知識はある(と錯覺してゐる)から、この惡弊を改めることなく、日々研鑽を積み、これを鞏固なものにして行く。

思へば、英語の教諭の九割がこの手の陋習に染まつてゐた。大學に入つた後にも、身の廻りで「讀めない人」は皆、これであつた。存外歸國子女にもこの手の人が多かつた。自分の經驗が絶對化されてゐるせいであらう。幼少時の言語體驗、日常の會話體驗で高級な文章を理解しようと藻掻き、スタイルに應じた運用能力が身に附かないと見える。

中には文法、語彙の知識すら怪しく、そのために「これは接續法未來完了の非人稱動詞」なる不氣味なラテン文法を捏造し、快刀亂麻を斷つが如く、人語を猴語に飜譯し續けた傑物もゐた。餘り零の商を探すどころの騷ぎではない。「十八割る六は一、餘り十二」竝の誤解である。かうなると却つて清々しい。

自分が解釋の手順を教へるやうになつて、教はる側の資質が見えてくる。數箇月で伸びる者は、こちらが提示する解釋の手順を眞劍に聽く。伸び惱む者は、文法と語彙の知識に胡座をかいて、こちらの解釋の結果だけを聽かうとする。この文を理解できない自分に足りないものは何か。文法の知識か。語彙か。言語外の知識か。さう考へる者は、運用の世界に足を蹈み入れてゐる。どこまで判つてゐるかを把握してゐるので、今後憶えるべき事柄が見易くなり、記憶も容易になる。解釋の結果だけを求める者は、ある音の羅列が然々の意味であると云はれても、濱の眞砂から一粒の砂金を拾ひ當てるやうな話に聞こえるであらう。何を憶えて良いか判らないし、憶えられもしないので、解釋だけを丸諳記することになる。

「この動詞のこゝに注目して下さい。この母音が出て來たら、二つの可能性を想起する必要があります。一つ目は」等といふ説明は、文法書のどこにも出て來ない。當たり前である。これは正解に近づくための考へ方であり、文法ではないのである。ところが、文法書を繙けば、右の例にある「二つの可能性」はいづれも載つてゐる。當たり前である。一人で讀解する時に、その文法事構を引き當てることが出來るやう、こちらは日々道筋をつけてゐるのである。運用の現場を見せてゐる。それを話半分に聞き、文法書に載つてゐることゝ同じだ、自分が讀んだことのある規則と同じだ、で濟ませる限り、自分で讀めるやうにはならないであらう。

今日の英語の教諭が何をやつてゐるかは知らないし、その資質も關知するところではない。たゞ、願はくば、如何なる言語にも運用方法があり、如何なる言語であつても、精確に運用するためには然るべき修煉を必要とすることを銘記して戴きたい。出來ることならば、英語(でも何語でも)の教授の現場で、運用方法に留意した教育を施して戴ければと切に願ふ。

平成十九年十一月二十日一筆箋
同日修訂上網
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夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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