エンプレーズ

夕霞堂隱士元夏迪

劍橋は朝路面がほんの少し凍つてゐた。明日は氷點下に下るらしい。

本日二十日1、パタソンのローマ史概説に行つたら、冒頭いきなり「これから五分時間を上げますから、思ひつくエンプレースの名前を書き出して、いい者惡者半端物に分けて下さい。後で發表して貰ひます。周りの人と相談してもいいから」とパタソン。乃公の前の坊主頭に眉ピヤスの兄ちやんがくるりと振り返り、自分のノオトを差し出して「書いて。乃公より御前の方が知つてゐさうだ」。で、何やら書類を覗いてゐるから「それは何だ、御前は何をしてゐるのだ」と訊いたら「アンケイトに協力しなくちや」。そしてモニョモニョと何かラテン語のやうなものを云ふ。

「乃公はイギリス式のラテン語はよく聞き取れないよ、誰のこと」
「ウーン、乃公も自信がないんだよね」
「こつちもエンプレースの名前なんてそんなに覺えてゐないよ、リーヰア、アーグリッピーナ、ユーリア、ファウスタ……。スポルスはどうだ、ネローの小姓で後で「皇后」になつたのは」
「アハハハ」

と笑ひながら、ピヤス君は變な顏をしてゐる。

時間が來た。パターソンが

「ぢやあ、みんな、どんどん名前を云つて下さーい、黒板に書いて行きます」
「オーガスタス[アウグストゥス]、グウッ」
「オウケエイ」

え?

「シーザー[カエサル]、グ」

教室中で

「皇帝ぢやないぢやん」

笑ひ。さう、エンプレスではなくて、エンペラーズだつたのだ。參つた(パタソンの英語は聞き取りにくいのだ、と云ひ譯)。ピヤス君が變な顏をする筈だ。

「カリギュラ[カリグラ、即ちガーイウス]、バアー」
「クローディアス[クラウディウス]、バ」
「ニェロウ[ネロー]、ワースト」
「ヴェスパジヤン[ウェスパシアーヌス]、グウ」
「トレイジャン[トラーヤーヌス]、グウ」
「タイタス[ティトゥス]、クヱスチョン[これは面白い。文句なく名君だが、ヒエロソリュマを陷落させたディアスポラの元兇と見られてゐるのか]」
「ドミティアン[ドミティアーヌス]、ヴエエリイ・バーッド」
「そんなにですか」
「惡い惡い」

……と續いて……

「フレイヴィアン[ヱスパシアーヌス、ティトゥス、ドミティアーヌス三名をフラーヰウス朝と稱することから來た誤解]!」
「へ?」(教室中大爆笑)

その後善惡の基準を出せと云はれ、眞つ先に上がつたのがインセストで、教室中大爆笑、パターソンがそれを黒板に書くのを見て、これまた割れんばかりの大受け。この邊の感覺はよく判らないが、何かタブーを侵犯する快感のやうなものが漂つてゐた。他にも色々と出て來たが「自分一身のために莫大な金を使つて民衆を苦しめるやうな惡い行ひでーす」と力説する女子學生に教室は感心、パターソンが板書に「浪費」とあつさり一語で濟ませると爆笑。「迫害」。はい、迫害ねと板書するパターソンの背中越しに、當時基督教徒を迫害するのは良いことだつたんぢやないでせうか、とこれまたビックリ仰天の反論が出たりして、色々ですなと思ひました。

で、講義の内容はよく聞き取れなかつた。あまり本論に費やす時間がなくて、お座なりになつたせいなのかも知れない。

1 平成十二年歳次庚辰西紀二千年十一月二十日月曜。

平成十二年十一月二十日某君宛
平成二十年四月四日一筆箋
同年四月五日修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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