校勘

夕霞堂隱士元夏迪

一口に校勘emendationと云つても、傾きは色々である。解釋學的に本文の字句を定めていく方法もあれば、措辭結構の姿に全神經を集中する修辭學的な手法もある。文法の正否を基準に立てるのは勿論であるが、その運用をどこまで嚴格に行ふのか、その匙加減に學力が滲み出るのも、校勘の面白いところであり、恐ろしいところでもある。

希臘古典に限つて昨今の傾向を讀むに、内容を重視して、正則文法に統一する、解釋學的校勘が目立つ。他の資料で判明してゐる情報と極力一致するやうに内容を定め、その内容を正しい文法で表現してゐるやうに文言を定めていくのである。判りやすい本文を出してくれるので、初學者には有難い傾向であらう。

文獻學、古典學の將來を思へば、少々氣になる動きでもある。いかな古典とは云へ、今日我々が修得する文法で隅から隅まで埋めつくされてゐた譯ではない。近代語文法とは違ひ、古代語文法は文法の規範を提示するばかりではなく、語法の實態を描寫する性格が強いものゝ、その記述文法とても、通常教室で用ゐられてゐる程度の書物においては、一部の作家やジャンルに重點を置いて語法を蒐集し、描寫してゐる。これに漏れる作家やジャンルの語法はいくらでもある。また、語形や變化、統辭、修辭については、一應の説明がしてあつても、文章を構へる技法については全くの手薄である。古代語にあつて、文章作法が如何に重要であるかは、今更云ふまでもない。かうした缺陷を孕んだ文法に則つて字句を定めるのである。恐るべきことである。

本來、文獻學に携はる者は、正則文法に通曉するのはもちろんのこと、これから逸脱する現象を知悉してゐるものである。そのやうな現象が生じる事實や箇所を知るばかりではなく、なぜ生じるのか、それが生じてをかしくないのはなぜかといふ問題を、筆者や話者の心の襞に分け入つて把握してゐる者である。換言すれば、腦中に古典語の囘路を構築した者である。「無斷で立ち入りを禁ず」といふ貼り紙を見たら、苦笑ひして「でもまあ、仕方ないかな」と想ふ感性を、古代語で作り上げた者のことである。

さうした古典學者は姿を消しつゝある。劍橋で感じ、昨今の校勘者の顏ぶれを見て、その意を強くしてゐる。偉大な古典學者は、校勘表にめぼしい異讀や校定案を書き連ねながら、底本の寫本の讀みをそのまゝ本文に採用したりする。校勘表に自分の名前は出て來ないが、本文を定めた時の微笑は、本文の向かうに透けて見えるやうだ。校勘表に登場する場合にも、ラテン語の動詞を直説法の現在完了時制、一人稱單數(場合によつては複數)に置くばかりである。僅か一單語だ。その一單語を書き記す悦びも、ひしひしと傳はつてくる。同時に、歴代校勘者と歴代讀者、そして未來に對して挑戰する、尋常一樣ならざる氣魄を感じるのだ。

平成二十年正月十六日一筆箋
同日修訂上網
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夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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