栗名月の宵に

夕霞堂隱士元夏迪

昨十三夜の夕方、バスで家路に就く。左一番前の座席には、御婦人が既に腰掛けてゐる。運轉手のクラッチ捌きを觀察できず、殘念だ。已むなく右列一番前、運轉席の眞後ろに坐る。愚妻は左列二番目、進行方向に對して横向きの長椅子に坐る。

四丁目の交叉點を左折し、バス停に近づく頃、前方を見詰める視界の左端、バスの通路を前に歩く女を見た。見た氣がした。高い位置にある座席から見下ろす恰好だつたので、中學生くらゐの體格に感じた。

バス前部の降車口には誰もゐない。まさかと思ひ、視線を向ける。バスの床には差し込んだ街燈が走行に合はせてまだらに廻轉してゐる。光の加減で錯覺を起こしたのか。あの生々しい氣配は目の錯覺で生じるものではないのだけれども、鳥肌がたつでもなし、ならばやはり光線の仕業だとしておくか。

橋でバスを降りる。妻が訊ねる。四丁目交叉點を過ぎた邊りで左側最前列、自分の前の席に婦人が坐つたのを見たか。妙なことを訊ねるものだと思ひながら、少し引つかゝりを覺える。問題の婦人は、始發のバス停で眞つ先にその席に陣取つたのである。だからこそ不佞はその右隣、運轉席の眞後で我慢したのだ。

「最初から坐つてゐたよ」

やつぱり、と妻は云ふ。交叉點を過ぎる邊りで婦人が自分の目の前を過ぎつた、自分はボンヤリと見送つたのだが、車輌前部の兩替裝置に目をやつても人はゐないし、走行中に人が降りることもない、ならば自分の前に坐るしかないが、前の座席にはずつと人が坐つてゐた。

どうも不佞と同じものを見たらしい。オカルト的なものは感じなかつた。たゞ、氣配だけは濃厚で、視界の隅を過ぎる姿も存在感は十分であつた。空氣がぐにやりと曲がつたようにも感じた。

バスに憑いてゐる理由までは、さすがに判らない。

平成十九年十月二十四日一筆箋
同日修訂上網
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夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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