夢游東發

夕霞堂隱士元夏迪

久振りに鈍行に飛び乘つて北へ北へと旅に出た。

能代の傍、日本海の荒波が岸邊を洗ふ東といふ街の驛で汽車を降りる。木造、チョコレイト色の驛舎である。ホームは二本、地下道で連結し、階段は頗る緩やかである。冬の日本海の風がふやけた頬に心地よい。

スイカで料金を精算すると、莫迦に運賃が安い。たつたの三百六十圓である。しかし改札の施設を見ると、昔ながらの鐵パイプをねぢ曲げた柵であり、木製の檻である。中に係員が立つて鋏を入れたり、切符を囘收したりせねばならない筈である。はてどうやつてスイカで精算できたのだらう、何氣ない動作の記憶は殘らないものだ、歳を取るとそんなことばかりで困つたものだと思ひながら、柵の中を覗き込む。

「歳末助け合ひについての御説明」といふ紙切れを貼つた、紙の箱が置いてある。表面にセロハンテープで四角に圍んだ部分があつて、そこにスイカを置いたら箱から感熱紙のレシートが出て來た。百圓徴收と書いてある。もう一度スイカを置いてみる。さうすると西武鐵道の制服を着た驛員が「二十圓のお釣りで御座います」と十圓玉を二枚、箱の縁に置く。

驛の外に出ると、驛以外になにもない街である。路もない。荒れ地が海に落ち込んでゐる。二十メートル先である。東西南北、何もない。仕方がないから、歸京を決心する。自動劵賣機にスイカを差込み、百六十圓の切符を買ふ。先程徴收された金額の費目について、履歴を表示して確認してみようと思ひ立つ。スイカを差す口がない。

どちらのホームで待つてゐればよいのか判らない。そこで驛の地下道に降りる。地下道は巨大地下街に連結してをり、そこに人が行き交ふ。東といふ街は、どうも戰後街を地下に埋めたらしい。地上が荒れ地なのも當然である。

驛地下街から一番近いところに書店がある。菊版の『足利學校』と銘打つた綜合雜誌が置いてある。手に取ると、日本清酒協會の發行となつてゐた。それで合点がいつた。地場の文學はないだらうかと、思ひの外廣い店内を徘徊するも、雜誌以外は文具店といつた趣である。便箋の品揃へが多い。一つ一つ、紙の質を手で觸り、萬年筆に合ふかどうか、確認する。今囘は見送りだ。

古いノートの投げ賣りコーナーもある。アピカのノートがある。イングリッシュ・コンポジションと書いてある。左側に英文が無造作に刷つてある。右側の頁にそれを轉寫するらしい。コクヨのキャンパスノートの二代目、A罫もたくさん竝んでゐる。そのうちの一册、四十枚綴りを手にとつてパラパラ捲る。東へ來た紀念に一册買はうかと思案する。

中程に分厚い茶封筒が挾んである。ボールペンの走り書きを判讀することはできない。賣り物なのだから、中を見ても差し支へなからうか、元の持ち主に返せるものなら返してやりたいと思ひ、中を取り出すと、燒きも晒しも甘い粗惡な寫眞の束である。

どれもこれも同じ石を寫してある。石は長い物らしく、同じ草地を背景とし、上下に渡つて舐めるやうに撮影してゐる。碑文らしい。目を凝らすと、表面にシャープペンシルで引つ掻いたやうな、片假名と平假名がある。十枚ほど繰つたところで、寫眞の表面にもシャープペンシルで引つ掻いた跡がある。次の寫眞を捲ると、前の寫眞の上のシャープペンシルの筆蹟を見易く撮影したものである。文句の意味は分からないが、それが呪詛であることは直ぐに理解した。隣に立つてゐた、學ラン姿の高等學校の生徒二名を捕まへ、君たちのところでは、かうした呪詛の文化があるのかと訊いてみるが、二人とも首を横に振る。

二人に自分は汽車を待つ時間、こゝで文具をあさつてゐた、そろそろ汽車が來るかも知れないので失敬すると云ひ、質問に答へてくれた禮を述べて立ち去らうとする。彼らは汽車に間に合ふといゝですなあといふ意味のことを云つてくれる。

ホームに上がる。東からは「東發」といふ街に行く汽車と、仙臺に行く線が伸びてゐる。東發からはフォントの違ふ仙臺に行く路線が延びてゐる1。どちらの仙臺を經由しても南下すれば江戸川で同じ線路に收斂するのであるが、日本海側、東發の南にある、フォントの違ふ仙臺を通らねば、夜行には乘れない。しかし、自分の飛び乘つた汽車がどちらの仙臺を目指すのか、容易に判斷がつかない。路線圖を見ても、どちらの仙臺も同じフォントで印刷してあつて、なんて不親切なんだと憤慨したところで夢が破れた。

1 「フォント違ひの仙臺」(日本海沿岸)は存在しないであらうが、東發といふ地名は實際にあるらしい。徳島縣鳴門市撫養町齋田字東發

平成十八年十二月二十四日一筆箋
同日修訂上網
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