史學と常識

夕霞堂隱士元夏迪

歴史學は常識の學なりとは、誰の言葉だつたか思ひ出せないが、隨分と昔、小僧の頃に耳にして、爾來折にふれて反芻する文句である。

常識とは、自分個人が懷く狹い常識、偏見の謂ではなく、世の酸いも甘いも噛み分けた後に到逹する境地、もう少し學問に引き寄せて云へば、古今の典籍を渉獵した結果身に附く健全な批判精神といふことになるだらうか。從つて、時代も地域も異にする古人の言行を知るために動員すべき常識とは、極めて宏遠なものとなる。

ところが、世の學者の多くは、常識を己の偏見と勘違ひして、本來自らの規格には合はぬ古の現象を、己の規格に押し込めてしまひ、はみ出た部分は默殺する。默殺ならばまだ才氣を感じることも出來るが、大概の場合は、はみ出た部分に氣がつかない、と云ふべきであらうか。かくして古今の差異は矮小化され、偏見は強化されて行く。グランド・セオリーの不在を歎く聲も、遠くこゝに端を發すると見てよい。苦勞して史料を操作して、出て來た結果が拍子拔けでは困るだらう。これを華麗に飾らうと渇望するのは人情である。

自分の偏見に縋るなら、もう少し使ひ道を考へればよい。ある史實の解釋を見直す時に、身の廻りにその解釋を當て嵌めてみて、その有效性を檢證するのだ。綺麗に史實を説明してゐたやうに見える解釋が、どれほど危ういものかが判らうといふものである。解釋に先立つて設定された問ひの建て方の巧拙も明かとなるだらう。

げに「莫迦と鋏は使ひやう」である。

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平成十九年三月十七日一筆箋
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