墨蹟を/に觀る

夕霞堂隱士元夏迪

來春、東博に顏眞卿が來るといふ。今からたのしみである。支那の歷代名筆を眺めるのは無上の幸せである。

文章がいゝ。全て自分の言葉を綴る創作である。本朝當代はこの點、かなり見劣りがする。臨書が多く、創作も内容が貧困である。古筆に遡るとよいものが多いけれども、古典となる力はやはり支那に一籌を輸[しゅ]すると言はねばならない。支那名筆は活字で讀んでもいゝ文章がその字、その語、その場[=配置、機會]に相應しい造型で置かれてゐる。カスタムメイドの極北としての美しさがある。

墨痕には筆の動きが鮮やかである。稀代の名筆ともなれば、その動きが至妙の旋律をなす。指揮者を必要とする樂譜を遙かに凌ぐ精度で、また樂器を一切必要とせずに、その妙樂を觀る者に屆けてくれる。實際に音を聽く人もゐるだらう。墨痕が傳へる動きは古今、天地にあつて、他にはあり得ぬ唯一の軌跡を辿る。その動きが體の中に染みこんで、融けていく。玄黄の理が體に宿る。

古典や文字をどう讀むか、如何に消化し、昇華するかを考へ、實踐する上でも、支那の名筆はなによりの教材となるだらう。顏眞卿のやうに傳統と革新といふ、優れて人間的な事情も絡む筆法、また具體的な日常に卽して筆を執り、その作が傳はつてゐる場合、なほのことさうであらう。

平成三十年九月二十九日土曜一筆箋
同年日修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
inserted by FC2 system