歳末の圖書館

夕霞堂隱士元夏迪

平成十五年十二月二十日土曜。九時過ぎに目を醒ますと、外は大風だつた。大風では生ぬるい。暴風であつた。雨のぱらついた形跡がある。庭に面した玻璃窓の凄まじい結露と相俟つて、さながら颱風。午後は專ら風が吹く。遠く北の一角だけに青空が覗き、手前は鼠色に曇つてゐる。喬木が弓なりに撓ふ。部屋の前に徘徊する猫も、今日は日課を取りやめだ。

用事を濟ませた十五時半、學部に向かふ。文字通りの寒風が體温を奪ふ。クインズ路を南下する頃には、右手遊技場の芝生の彼方に朱の陽が沈んでゆく。狼子黌で門衞に頼み事を濟ませ、シジウヰック路にある學部圖書館に辿り着いた十六時過ぎには、夜の帳が降りてゐる。

靄と霧とで一日延ばした照合作業は實に骨が折れる。史家アバースに始まつて、アルファベット順にマグネーシヤーのゾーピュロスに至る無慮四百五十五名、その史書の殘缺を眺めてゆく。人氣の失せた圖書館で獨り机にかじりつき、所々端折つてもAの部すら終はらない。四時間一寸。見通しの甘さに愕然とする。

消し忘れの机上燈が薄く點る他は、室内は眞つ暗である。腰を上げて家路につかうとすると、こちらの動きに併せて書架燈に火が入る。舊式の感知噐で作動する點燈スヰッチの音だけがカチリ、カチリと響けて行く。煖房のない建物の中で體は冷え切つた。

シジウヰック構内を北に拔け、神學部、綜合圖書館を左に眺める。圖書館の敷地には燈り一つない。巨大な堂宇の前に出て無人の舘を見上げる。世の中に自分が一人遺されて、この無人の圖書館に蓄積された叡智を傳へよと云はれたらなどと、あらぬ妄想を逞しくする。

漆黒の夜道に平然と歩を散じてゐた元氣はどこへやら、俄に恐怖に取り憑かれ、足を速める。クインズ路に拔け、纏まりのない光景に出會つて安堵する。汚らしい雜木林、それなりに澁滯する車通り。何遍見ても好きなれない光景に安らぐ自分を訝しく思ひながら、ヒストン路交叉點を目指して丘を登つた。

平成十五年十二月二十日一筆箋
平成十七年九月十九日修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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