武州秋天就好

夕霞堂隱士元夏迪

秋空に輕風の亙る今日もまた、上武州境に出向く。道中、田には米が熟し、中には實る穗の重みに稻の倒れる田も見える。少時には見なかつたコシヒカリの田であらう。驛から畑の畦を辿れば、右手には育ちすぎた葱、左手には彈けるやうな人參の葉、遙か前方には北武藏の山地、右斜め前方はもう榛名、さらに遠く妙義の山塊が墨色に耀く。歸路はひたすら熟睡[うまい]を貪り、氣がつけば大宮驛まで南下してゐる。乘り換へて、川口附近の廢工場、師匠の終の棲家となつたペンシルビルをうち眺め、中央線で西下すれば、武藏小金井驛南東沿線に味はひ深い小路の潛んでゐることに氣づく。四圍隔絶された一角に赤提燈が下がり、木造○○莊が頑張つてゐる。最寄り驛で乘つたバスはステップのそゝり立つ古い車體で、そのせゐであらうか、どこか和んだ空氣が流れ、次々に運轉手に物を尋ねる客があり、通行人がある。高い車窓からは星野模型店の中がよく見える。好もしく乾燥した木材と、硝子の陳列ケイスは使ひ込まれ、帳場の長い營みを物語る。店主と客との距離が近かつた古き良き時代の遺物である。人目を避けてコソコソと買ひ物をエンジョイする昨今の客をあしらふのはどうするのだらう。元氣に營業を續けてゐるところを見るに、今なほ剛膽な若人がゐるのか、剛膽な老人が贔屓にしてゐるのか。バス停で下りれば、上水の邊は耳を聾する秋の蟲。今日、たつた一疋蝉が鳴くのを聽いたのは、どこであつたか。マクドナルドの前で獨り、「もーやーツ」と絶叫しつつ彷徨[うろつ]く狂兒が、小兒用マウンテンバイクを押し歩き、前輪を何度も激しく地面に打ち附けるのを不安げに見守る店員の姐さんに同情しつゝ、上水に立ち籠める闇の中を歩いたことだつた。

平成二十年十月二日一筆箋
同日修訂上網
caelius@csc.jp

夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
inserted by FC2 system