平成二十八年八月八日營中奉勅

夕霞堂隱士元夏迪

これまで八日は何もない日であった

[平成28年西紀201688日(月)13558秒]

暑熱が報じられる中、今日の武州も濕度の低い晴天である。登營の道中は仕事に使ふ和書の閱讀、登營しては飜譯の續き。歸舘したら校正を終はらせたい。

十五時の勅は營中で拜することになる。公を追求し、體現する今上の勅の内容が如何なるものであらうと、今更驚く國民もあるまいし、今更國民を驚かしむる内容になるとも思はれない。

もし、驚く者がゐたり、驚きの内容だと感じる者がゐたりすれば、當人はよくよく思案した方がよいし、さういふ人物について、周圍の者もよくよく思案した方がいい。

飜って、當今、今上の勅をよく吟味することが必要なのかも知れない。公とは何であり、私とは何であり、社會とは何であるか。贊否の問題ではない。空氣の問題でもない。勿論、空氣についての贊否の問題では全くない。

その結果

[平成28年西紀201688日(月)141152秒]

附言すれば、日本國憲法とは何であり、憲法とは何であるかといふ問題が浮上する。公とは何か、權力とは何か、制度とは何かと言ひ換へてもよい。

憲法學者の手に餘る問題となることは、誰の目にも明かであらう。從來──ここ數十年と言はうか──の道具で片のつく話ではなくなる。一人一人が樣々な角度から考へ、述べ、修正し、といふ過程が今後、長く潛行するやうになる。

それを掬ひ上げ、集約し、調/整へる囘路がないのは氣懸りだ。短絡し、歪曲し、誇張し、無視する媒體と環境だけが整つてゐるのは恐ろしい限りだ。論じる人の視野、視力に問題があるのは今に始まつたことではない。しかし、今囘の一件で好ましからざる拗らせ方をする懼れは否めない。

人文學、社會(科)學がおかしな土俵に(勝手に)上つて、慣れない相撲に痛めつけられながら「この土俵に立つて鬭ふ意義は」などととんちかんな議論を立てようとしてゐる今、この難局は吉と出るか、凶と出るか、豫斷を許さない──いや、凶と出る豫斷を許したくない氣がする。

[平成28年西紀201688日(月)150000秒]

勅を承る

[平成28年西紀201688日(月)204622秒]

勅はどこまでも公に貫かれてゐた。これを聽いた「聲」は私が發し、勅にはない「私」に向けられてゐた。國内外のメディアはこの邊りをきちんと辨別してゐないやうである。「これまで八日は何もない日であつた」で指摘した公は、早速(竊かに)喫緊の問題となつた。

政界の面々には流石に公の詞が通じたらしい。反應も公に沿はうとしたものが目立つ。幸ひ、今囘は事が事なので、報じる側にもいつもの「味付け」を控へる動きがあるらしい。國會で見る彼らの姿に近い言葉が世上に聞こえてゐる。

平成二十八年八月八日月曜一筆箋
同日一筆箋
同日一筆箋
平成二十八年八月九日火曜修訂上網
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夕霞堂文集/夕霞堂寫眞帖
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